あさがおの記2章私のおいたち高校生編②再びオードリーヘプバーン
高校2年生になって新入生の男子4名が
自動車部に入ってきた。
その頃には、女子部員は全員退部していた。
3年生は就職活動や大学受験勉強のため
1学期の中頃からほとんど活動に参加しなくなった。
私は、1年の時から部長代行だったので
先輩が来なくても思うようにクラブ活動を楽しんだ。
グループ交際
私の学校では
2年生から就職コースと進学コースに分けられた。
私は、気楽な就職コースに進んだ。
進学コースは受験科目を重点的に2年間勉強し、
放課後も1時間みっちり補講授業があった。
これに比べて就職コースは
簿記・珠算・商業実務等の
就職してすぐに役立つ実用的な科目を中心に学んだ。
貿易実務やコンピュータの授業もあり、
ビジネスの世界を垣間見れて面白かった。
会社見学では
日本生命を訪問して、初めて実際のコンピュータを
見せてもらった。
当時のコンピュータは貴重な事務機器で、今のように
一般化もしていなかった。
大企業ですら持っている所は少なかった。
もちろんインターネット機能などもなく、
計算等の数字の処理に主として利用されていた。
形も今のようなノート型やデスクトップ型などもなく
柱のような大きな箱がドカンとフロアーに置いて
使っていた。
45年前のことを思うとコンピュータはずいぶん進化した。
さて話を戻して、
就職コースは、卒業までに最低、簿記と珠算検定の3級を
合格することが義務づけられていた。
私はラッキーにも両方とも2級に合格し、
ついでに英語検定も2級まで取れた。
また、友達関係でも
中学時代は特に親しい友人はいなかったが、
高校2年になり、小学校の時のような親しい友人もできた。
2年の初めにクラス替えがあり、
私の席の前後左右の4人のクラスメートと仲良くなった。
小柄でおっとりしたカオリ。
おきゃんで明るく人なつっこいミチコ。
スレンダーでしっかり者のキヨコ。
3人とも可愛い女学生であった。
そして英語クラブの部長をやっていた頭のいいシゲル。
それに私の5人が
2年最後の修学旅行まで親しくつき合っていた。
俗にいうグループ交際であった。
私のグループの女性たちは、うぶで精神的にも幼い面もあり、
我々を男性と認めていないところがあった。
男性2人も
彼女たちの誰かと二人っきりになると照れくさくて
どうすればいいのかわからず、
かえって変に意識してしまうので、
5人で小学生のように
ワイワイ無心に騒いでいるのが楽しかった。
本当にみんな純情であった。
私もシゲルと2人でいるより
彼女達が中にいることで楽しかった。
彼女たちも
男性がグループ内にいることで安心感があったようだ。
我々は、用心棒みたいな存在だったのかもしれない。
この5人組は1年間限定の仲間であった。
3年になってカオリとミチコは引き続いて就職コースへ
キヨコはお父さんの仕事の関係で修学旅行後に
東京に引越して行った。
我々男性軍は当初の就職コースから進学コースに
進路を大きく変えた。
修学旅行で楽しい思い出を作って、
キヨコが東京に引っ越したのをきっかけに
このグループを解散して、
それぞれが選んだ道を歩むことになった。
その後、高校を卒業して5人が一堂に会することも
連絡を取り合うこともなかったが、
だいぶ時が経ってから私は、偶然に
大阪にいた仲間一人ずつに出逢ったが、
その時は、
もう元の仲良しグループに戻ることはなかった。
私とシゲルが大学に入り、
カオリは大手の現像所の事務員となった。
たまたま私の行きつけの洋書専門店「丸善」の近くに
彼女の職場があり、がんばって働いている姿を
チラッと見かけたことがあったが、
忙しそうに仕事をしていたので声をかけそこなった。
ミチコは大手の調味料関係のA社のOLになったが、
これまた全く偶然であったが、
私の大学1年のときに
合宿費を稼ぐためにアルバイトをしたのが、
彼女の職場であった。
ちょうどお中元シーズン前で顧客に送る
ダイレクトメールの発送事務のバイトを3日間した。
そしてその最後の日に何か資料を取りに
ミチコが資料室に入ってきて、ばったり1年ぶりに再会。
二人ともびっくり。
いつものように人なつっこく
話しかけてきてくれたのがうれしかった。。
化粧をしていたせいか女っぽくなっていた。
お互い仕事中だったので
「また後で!」と
言ったままになってしまった。
ちょうどアルバイト料をもらった日だったので、
彼女の仕事が終わるのを待ってお茶でも飲めばよかったが、
私の仕事が予定より早く終わって、
彼女の終業時間の5時まで2時間以上もあいていた。
仕事の終わったアルバイトがブラブラしているのも
邪魔になるように思えて居づらくて、
彼女に連絡せずに帰ってしまった。
多分大人っぽくなっていたミチコと二人きりになるのが
眩しくて照れくさかったのだろう。
彼女はすでに社会人、
私はすねかじりの大学生であったので、
何となく引け目があったのかも。
東京に行ったキヨコからはシゲルが1度だけ手紙を
受け取っていた。
グループの中では、シゲルとキヨコは特に仲がよかった。
彼もキヨコが東京の短大に行っているところまでわかったが、
その後、音信不通になってしまった。「いい人ができたのかも」
シゲルはその後、大学を出て社会福祉主事の資格で
区役所で勤務していた。
ある日、私が区役所を訪ねた時に彼と偶然ばったり会った。
後で連絡してくれと名刺をもらったが、
その後、私がヨーロッパに行ってしまい
連絡が途絶えてしまった。
彼らとは1年間の短い期間の友人であった。
皆、結婚していい家庭を持っていて欲しい。
「いいおじいちゃん、
おばあちゃんになっているだろうなあ?」
また偶然にどこかでばったり会いたいものだ。
でも町で通りすがりに出会っても
もう今では昔の面影がなく、誰が誰だかわからないかも…。
高校時代の良い思い出を
作ってくれた友人たちであった。
さて、ここでタイムスリップして
話をさらに高校2年の夏休みまで戻そう。
それは、私の人生の方向を大きく変えるきっかけを作った
オードリーヘプバーンとの偶然の
不思議な出会いがあった夏である。
中学までの夏休みの恒例であった
お盆の時期の和歌山行きも
高校に入ってからは興味がなくなっていた。
川でメダカを捕ったり山でのセミ取りが
子供っぽく思えたからであろう。
それにクラブ活動をしていると
夏休みも夏季練習があり、
部員数の少なかった自動車部の
部長としては自由に休むこともできなかった。
さらに中学時代と違って、
親父の仕事を手伝うことが
夏休みの日課の1つにもなっていた。
多分両親は、働いてお金を稼ぐ大切さを
夏休みを利用して教えたかったのだと思う。
この時の夏休みは、
秋に簿記と珠算の検定を受ける予定があり
その勉強もしなければならなかったが、
珠算はすでに小学校で3級をとっていたので、
簿記のみを集中的に勉強すればよかった。
親父の後を継ぐつもりでいたので、就職の心配もなく、
のんびり夏休みを楽しんだのがこの時期であった。
たまに日曜日には、
近くの映画館で母親の好きな時代劇が上映されると
連れていってくれたり、千日前の大劇の芝居や
「夏の踊り」にもついていった。
大劇では人気歌手の「歌謡ショー」や
芝居などの催し物があり、
母親は日本製ミュージカル「狸御殿」の大ファンで
よくいっしょに行った。
ストーリーは
狸の世界のお姫様と若君のラブロマンスで、
華やかで夢のある舞台で私も充分楽しんだ。
大劇はだいぶ前に閉館して、
今は、お笑いの吉本興業の劇場になっている。
その大劇の一角に「大劇名画座」があった。
リバイバルと称して
昔ヒットした名画(洋画)を2本立てにして
上映する小さな映画館であった。
当時、洋画には
あまり興味のなかった私には無縁の場所でもあった。
ところがこの名画座が
オードリーヘップバーンとの不思議な出会いの場となった。
「ローマの休日」と「ブ―ベの恋人」
お盆も過ぎて夏休みも終わりに近くなったある日、
珍しく宿題もすべて終えて、簿記受験の準備も万全で、
クラブ活動も新学期まで休みになっていた。
親父の仕事も少なくて午前中に終わっていた。
何もやることがなく、カオリ達を誘ってどこか遊園地か
暑さしのぎに生駒山にでも登ろうかと思って連絡した。
しかしあいにく皆、予定があってフラれてしまった。
こうなるとどうして暇をつぶそうかと迷った。
家にいてテレビを見るのも飽きていた。
昼ごはんを食べて気晴らしに
繁華街でもブラブラするぐらいしかアイデアがない。
近くに近鉄百貨店があったが、
ここで日頃からよく買い物をしていたので、
今回は少し冒険して
あまり行ったことのないデパートを考えていた。
以前、小学生の頃に2、3度、母についていって
おもちゃを買ってもらったことがあった
心斎橋の「大丸」を
10年ぶりに訪ねてみることにした。
私たち学生にとっては、
「盛り場」を一人でぶらつくのは禁止されていたので、
それを破って行くこと自体が大冒険であった。
当時の校則では
「一人あるいは生徒同士で盛り場をうろつかない。
喫茶店も大人の同伴でないと入ってはいけない。」
となっていた。
大阪には代表的な盛り場が2つあり、
大阪駅周辺の梅田の「北の盛り場」と
難波や心斎橋の「南の盛り場」である。
私の家からは南の盛り場が近く、
母と時々行っていた大劇は
難波の近くの千日前にあった。
心斎橋は、その難波から1駅先で
大阪のメーンストリート御堂筋に平行して
北の大阪駅方面に続く長い商店街である。
千日前に比べると上品な店や有名な高級店が多く、
我が家も特別な買い物がない限り
ここまでは足を延ばすことはなかった。
日頃あまり行ったことがない場所だから
「何か変わった珍しいものがあるのでは」
という好奇心があった。
特に当時は、不良の「たまり場」と言われていた
ミナミの盛り場は
「学生が一人で行ってはいけない地域」でもあったが、
禁止されれば行ってみたいのが人間の心理である。
心斎橋に比べて千日前の方は庶民的でゴミゴミしていて
当時の大劇付近には怪しげな店や人物もチラホラしていた。
この付近は昔の処刑場があったところで、
その霊的な影響なのか、
大火事があったり犯罪も多い場所であった。
今回は一人であったので、千日前を素通りして
難波経由で心斎橋へ直行して
久ぶりに「大丸」や「そごう」の百貨店を中心に
ブラブラする予定であった。
また「恒例の夏休みの
子供向けの催し物もあるのでは」と期待しつつ
早めの昼ごはんを食べて大人っぽい私服に着替えて家を出た。
ところが、難波で降りるつもりで乗ったバスを
1つ手前の母と来た時にいつも降りていた
千日前で降りてしまった。
「習慣って怖いですね!」
難波まで歩いても5分くらいで行けるので
バスの後を追いかけて
まっすぐ大きな千日前通を進めばよかったのに…
ここからオードリーが魔法をかけました。
何と
今まで通ったことのない細い横道に入ってしまった。
怪しげな飲み屋や風俗店が立ち並んでいた。
昼間だったのでほとんどの店は閉まっていたが、
何かを物色しているような
挙動不審な通行人もチラホラいる。
突然、若いやくざっぽい男が声をかけてきた。
「兄ちゃん!兄ちゃん!
きれいなネーチャンいるからウチで遊んでいかないか?」と
誘ってきた。初めての体験でびっくりして
「いや結構!」というと
「学生やったら学割で安くしとくから遊んでいってや!」と
しつこくつきまとわれた。
「これから用事で行く所があるので、またな!」と
相手を怒らせないような対応をして、こんな怪しげな所で
意味のないやりとりで時間をつぶさないで、
とにかく「心斎橋へ」と一目散に
人の多い通りに走りこんだ。
何と大劇の横に出てきた。特に夏休みの盛り場は、
少年犯罪防止のために定期的に
警官や教師・PTAの生活指導員がよく巡回していた。
親と一緒のときは安心感もあり、何も感じなかったが、
いざ一人でくると
何となく怖さもあり、用心深くなりドキドキしてくる。
余程の用事がない限り
高校生がウロウロするような場所ではない。
しかしここまで来ると大劇では、
「今、何を上演しているのか」が気になり
看板だけでも見て
すぐに心斎橋に行くつもりで正面入口に回った。
有名な歌手が実演をやっていたが、
特に興味はなかった。
こんなところでいつまでも立っていると
補導されるかもしれない。
「さあ行こう!」とすると
金縛り状態になり足が動かない。
『困ったなあ!』 『どうなったのか?』
指導員に見つからないように周りを警戒しながら
大劇の前に立ちすくんでいた。
キョロキョロしていると
挙動不審で疑われるといけないので
足が動けるようになるまで、看板を隅から隅まで
見ているフリをしていた。
その時、何気なしにその隣の名画座の看板が目に入った。
「ローマの休日」と「ブ―べの恋人」の2本立てを上映していた。
再びオードリーヘプバーン
「ローマの休日」?
昔、どこかで聞いたことがあるタイトルだが、思い出せない。
とにかく母の影響で映画館で見る映画は、時代劇専門であり、
この時までは、好んで映画館で洋画を見たことがなかった。
まして洋画のタイトルや
俳優さんの名前など知っているわけはない。
「もしかしたら思い違いかも」
でも「ローマの休日」は、かすかな記憶が残っていた。
当時は几帳面で完璧主義で意固地だった性格が災いして
「思い出すまでここで考えてやる」という気持ちが沸いてきた。
それと同時に魔法が溶け出したように足も動き出した。
「ローマの休日」のスチール写真が
ショーウインドに貼られてあった。
そのオードリーの顔をマジマジと眺めていた。
王冠をつけたプリンセスのような女優さんのスチール写真が
貼ってある。どこかで見た女優さんだ。
その時はまだこれがオードリーとは分からなかった。
「誰だったのかなあ?」
「同じような写真をどこかで見たことがある」
その横に「オードリーヘプバーン主演」と
書いてある。男優さんもいっしょに写っていたので、
はたしてオードリーというのはどちらかなあ?
最初は男優さんの方だ思っていた。
(因みに相手役の男優はグレゴリーペックさん。)
時代劇で主演はほとんど男優であったための誤解であった。
「オードリー!」
「どこかで聞いた名前だ?どこだったのか?
そんなに昔ではない。」
私の海馬の中では、昔の記憶を
引き出そうと一生懸命に働いていた。
とにかく字幕を読むのが面倒で、
洋画など映画館で見たことがなかった。
見るとしても声優さんが日本語に吹き替えている
アメリカのテレビドラマぐらいであった。
テレビに出ている
外国の俳優さんの名前は知っていたが、
「オードリー」は喉まで出掛かっているのに
思い出せなかった。
日本語の「踊り」に似ているので、
どこかで聞いていたはずだが
思い出せない。
前頭葉の海馬がだんだんイライラしていた。
一方の「ブーベの恋人」の
クラウディア・カルディナーレは
初めて見た名前で、
初めて見る女優さん。
こちらは思い出しようもなかった。
でも「オードリー」は気になって
気になって、
このままでは心斎橋には行けない。
なんとか思い出そうと
必死に記憶を辿っていた。
しばらく「オードリーの写真を見ながら
「オードリー」と名前を繰り返し小声で叫んでいた。
観客がその写真を見ながら館内に次々入って行った。
そこに助け舟が現れた。
私の後ろからそのスチール写真を見ていた
若者の一人が、
「俺、これと同じブロマイドを持っているぜ!」と
4、5人の仲間に自慢げに叫んで
切符を買って中へ入って行った。
その「ブロマイド!」という言葉で記憶が蘇った。
「そうだ、あの時のブロマイド事件の女優さんだ。」
中学の音楽の時間の前に
ライバルの秀才Hがこっそりと自慢げに見せてくれた写真だ。
洋画には全く興味がなく「こんな女優は知らない」といったら
みんなから
からかわれたために反論してクラス中で
大騒ぎした女優さんだと長いことかかってやっと思い出した。
難問解決!
ついでに教員室で説教されたときも
「オードリーのローマの休日はよかった」といった
教員の何気ない言葉まで芋づる式に思い出された。
Hや他のクラスメートも
「オードリはいい」と言っていたことまで思い出した。
字幕を読むのが億劫で、「ローマの休日」は
特に好んで見たいという映画ではなかったが、
次の瞬間、足は心斎橋の方向に向かわず、
切符売り場の前に。
さらにオードリーが魔法をかけたように
無意識にポケットの財布からお金を出して
そして周りに補導員らしい人がいないか
確かめながら生徒手帳を見せ
「学生1枚」と聞こえないような小声で
切符を買って急いで
館内に吸い込まれるように入った。
これが私の洋画の映画館レヴューであった。
運命が今までとちがう方向に向いた瞬間であった。
人気のある映画であったので館内は超満員であった。
椅子が空いてなくて
壁にもたれながら2時間近く立って見ていた。
背の低い私の周りに背の高い青年がいたために
字幕が充分読みきれず、椅子が空くのを待って座れたときは
その日の最終回の上映だった。
とうとう心斎橋へは行けなくなった。
「足止めの術か!」
この頃「スクリーンの妖精」と言われていたオードリーは
「ピーターパン」の妖精ティンカーベルのように
私に金粉を振りかけたのか?
夜10時過ぎに帰宅したら親から大目玉を喰らった。
オードリーVSクラウディア
どちらもイタリアが舞台であり、恋愛ものであるが、
背景や環境が異なると、まったく受ける印象が違う。
「ローマの休日」は、
粋で明るい最後はハッピーエンドにならないが
なんとなく夢がある大人のおとぎ話であるが、
「ブーベの恋人」の背景には戦争があり、殺人が絡んだ社会派の
暗い感じのドラマ。14年の長期間を耐えて
恋人ブーベの出所を待つ
女の悲しみがヒシヒシと伝わる秀作である。
両方ともモノクロであったが、
色が想像できる私には不思議な映画でもあった。
明るい陽の気品のあるオードリーと
哀愁を帯びた陰の庶民派の土の匂いがする
クラウディアの役柄が対照的であった。
当時の私にとっては、オードリーには近寄りがたい
気品さを感じていた。あまりにも西洋人ぽくって
雲の上にいるような女優さんだった。
まさにこの頃から彼女は妖精であった。
これに比べてクラウディアの演じる恋人をずっと待ち続ける
真の強い女性の姿が日本の古い女性像を彷彿させ、
また彼女の黒髪と憂いを含んだ表情がやけに日本的で、
私としては、「ブーベの恋人」のほうが
親近感が持てて好きだった。
彼女のハスキーボイスも魅力的であった。
イタリアにもこんな日本的な女性がいるのかと思うと
イタリアという国に親しみと興味がわいてきた。
そして万博で初めて彼女に会っていろいろ話をして
握手をして手紙を書いたらすぐに返事をくれた。
この一連の動きが構えることもなく
実に自然にスムーズに近づけたのは、
彼女の人柄でもあったが、
私にとっても不思議な女優さんであった。
大阪万国博の時、谷口千吉監督の下で
撮影を手伝っていたので俳優さんや
タレントさんに多く出会ったが、
クラウディアのようなタイプは初めてであった。
実際会ってみると想像以上の気さくで
女優ぶったところがない。
「クラウディア!」と呼びかけると
笑顔で手を差し伸べてしっかりと握ってくれた。
また、わりと律儀で
温かい心を感じさせる女優さんである。
映画の役柄よりも彼女の人柄が大好きで、
以来、クラウディアの出演した映画は
ほとんど見ることになった。イタリアにいた時も
あまりイタリア語がわからなかったけど、
トリノでクラウディアの映画を上映しているとの
映画情報誌の記事を見つけるとわざわざ列車に乗って
見に行く始末であった。
「ブーベの恋人」で彼女が演じたマーラが
汽車に乗りブーベに面会に行くように…。
オードリーとは彼女の自宅があったスイス・ローザンヌ近くに
私も滞在していたが、残念ながら会う機会はなかった。
その頃、彼女は子育てに専念するために
一時映画界を去ってローザンヌにいたが、その後2,3本撮って
映画界を引退した。
その後のユネスコ親善大使としての活動は、素晴らしかった。
彼女の人間的な優しさで
アフリカやアジアの不幸な子供たちへ温かな愛を注いだが
道途中で他界したことが惜しまれる。
他方、クラウディアも
現在、ユネスコ親善大使として
「女性の権利保護活動」をしている。
この二人は競演したことはなかったが、
二人とも人間的にはすばらしい人で、
女優としての演技より
私は、彼女たちの温かい人間性で
社会に貢献しようとする生き方が好きなのです。
「ブーベの恋人」でブーベを演じた
ジョージ・チャキリスは
昨年の彼のブログに
当時のクラウディアの印象を
次のように書いている。
『私の恋人役のクラウディアは、
とても美しく才能豊かな女優であることは
皆さんもご存知だと思いますが、
彼女はとても気さくで心温かな人柄でもあります。
いまだに連絡を取り合っている友人同士であるのは、
彼女のそんな性格に惹かれてのことでしょう』と絶賛している。
私も同感である。初めて彼女に実際会ってみて
チャキリスが感じた通りのものを私も感じた。
残念ながら、
当時、私の知っていた彼女のローマの自宅の住所を
デンマークで紛失してしまって
(鞄が盗難にあってすべて無くしてしまった)
以来、長い間音信不通になってしまったが、
時々インターネットで彼女の元気な姿を見るたびに
安心している。
家庭で簡単に彼女の情報が分かるようになり
いい時代になりましたね。
「ローマの休日」のストーリーは前のブログで紹介したので、
ここでは、知らない人のために「ブーベの恋人」の
ストーリーをご紹介しましょう。
「ブ―ベの恋人」(1963年・イタリア/フランス合作)
クラウディア・カルディナーレとジョージ・チャキリスが主演した、
カルロ・カッソーラの同名ベスト・セラー小説を映画化した
ファシズムと戦うパルチザンの若者と村の少女の恋物語です。
映画は哀調を帯びたメロディとともに汽車の扉に佇んでいる
一人の女性の回想から物語は始まる。
彼女の名はマーラといい、2週間に1度、
投獄された婚約者ブーベのもとに7年間通い続けている。
そしてあと7年間通い続けるという。
そしてさらに回想が続く。
1944年の終戦=解放の日。
20歳の村娘マーラの元に一人の青年が訪れてきた。
パルチザンである彼女の死んだ兄といっしょに戦っていた
同胞のブーベが悔やみを言いにきたのだ。
針と糸を貸してくれという
彼の破れたズボンを繕ってやるマーラ。
その夜、世話になったブーベはパラシュートの絹布を
お礼に彼女に贈った。これがきっかけで交際が始まった。
マーラは彼からの便りを待つ日が続いた。
週一回決まってよこす手紙には、
仕事や党活動に明け暮れる報告だけが
書かれていて、愛の言葉はなかった。
しかし、徐々にマーラはブーベに
恋心を募らせ愛を育んでいた。
やがて幾度かデートを重ね
ついにブーベが求婚し二人は婚約する。
その時、二人を引き裂く大事件が起こった。
ブーベは、ファシストの憲兵とその息子を殺してしまい、
追われる身に。
マーラはブーベに同行してブーベの実家に身を寄せるが、
そこにも警察の手が。
仲間に隠れ家を世話された二人は、
わずかな蜜月の時を持った。
しかし、いよいよ国内潜伏も許されず、
彼はマーラを残して国外へ逃げた。
一旦、家に帰ったマーラだが、周囲の目がうるさく、
友人の紹介で都会に出て働き、
そこで
印刷所勤めの生真面目な青年ステファノと知り合う。
お互い婚約者のいる身であったが、
ステファノは婚約者とはうまくいっていなかった。
マーラも連絡が途絶えてしまったブーベとは、
もしかすると
一生もう会えないかもしれないという迷いと、
真剣にマーラの幸せを思っている
ステファノに心が動いていく。
そこへブーベが国外で捕まって
イタリアに送還され裁判となる。
法廷で再会したマーラは、
“君しか頼る人がいない”と言う
ブーベの支えとなろうと決心した。
結局、14年の刑を受けたブーベ。
2週間に1回ブーベに会うことを約束し、
ステファノと別れて7年たったある日。
偶然、ステファノに再会した。
まだマーラに未練があったステファノは、
独身を守っていた。
そしてマーラに再びプロポーズをするが、
マーラの決心は7年たっても変わらなかった。
「もう7年経ったのだから、
あとの7年など
あっと言う間にすぎるでしょう」と語るマーラ。
あの時、20歳だった娘は今、27歳の女盛りだった。
あと7年たてば34歳。
ブーベが出所したらすぐ結婚しよう。
人は遅い結婚だと言うかもしれないが、
私は気にしない。
だってずーっとブーベがそばにいるのですもの。
早く子供も作ってとブーベとの
幸せな家庭生活を夢見るマーラ。
この時のステファノとの最後のやりとりが
マーラの決心が揺るがない愛の強さを物語っていた。
「マーラ、彼をいつまで待つのか?」
「いつまでも待つわ。
でもあなたと一緒に過ごした時間も
決して忘れないわ。
あなたが、わたしを幸福にしようとしてくれたことも…。
でも、もうお別れしなきゃならないわ、ステファノ。
私達、別々の道を行かなきゃならないのね。
わたしのいる所は、やっぱりブーベのそばなんだわ。
死ぬまでそうなんだわ。さよなら、ステファノ。
あなたの幸せを祈ってるわ。私はブーベの恋人なのよ」
このマーラのひたむきさと
けなげさに感動を覚えところで、
哀調に帯びた主題歌が再び流れ、物語を盛り上げて
FINとなる。
戦後の混乱期の揺れる社会に翻弄され、
流転していく人生を迷いながら恋人を信じて愛し続ける
一人の平凡な女性の目を通して描く社会派メロドラマで、
複雑な女ごころをとらえた映像が秀逸で派手さはないが、
余韻の残る一作であった。主人公の姿が切なくも美しい。
モノクロ映画であるが、白黒の映像は、
片田舎の混沌とした戦禍の様子を
リアルに叙情的に映し出していて、
カラー映像では、
なし得ない効果を出していたと思う。
この撮影は、イタリア北部にあるシエナで行われたようだ。
シエナは、以前私が長く滞在していて人生の第2の
ターニングポイントとなった古都・フィレンツェから車で
1時間ぐらいの歴史のある町で、
トスカーナ地方でもとりわけ美しい街のひとつとして
知られているようです。
フィレンツェが私の第2のターニングポイントになったのは、
この「ブーベの恋人」が
最初のターニングポイントであったからかもしれない。
私にとっては
上町台地と同じくらい
不思議な縁で繋がっている町である。
この時はシエナで撮影されたとは知らなかった。
たとえ知っていてもあの時の貧乏生活では
シエナまでは行けなかっただろう。
いつかチャンスがあれば、行って見たい町です。
この頃のイタリア映画は、哀愁漂う名作が多かった。
「自転車泥棒」 「道」 「終着駅」 「鉄道員」・・・等など。
最近は
いいイタリア映画があまり日本に紹介されないのが残念です。
「ブーベの恋人」を見てから私はイタリアに大変興味を持ち、
イタリア人のペンフレンドが欲しくなり、
ペンフレンド協会で誰かを紹介してもらうことにした。
マーラのような女性が希望であったが、
どこで手違いがあったのか、送られてきた住所は
ミラノ近郊の1歳年下のジャン・パオロという高校生であった。
彼からの最初の手紙では、「僕は残念ながら男性ですが、
よかったらペンフレンドになってくれますか?」といってきた。
彼とは、この面白い「間違い縁」でもう45年以上のつきあいだ。
彼も奥さんをつれて日本に遊びに来たこともあり、
私も新婚旅行にイタリアを訪れて家内を紹介しているので
今では家族ぐるみのつき合いである。
イタリアは大好きな国の1つで、今まで3回も訪問している。
今度行く機会があれば、
ジュリエットのベローナと
シエナにナポリまで足を延ばしてみたい。
「ナポリを見て死ね!」です。
13年前に私が脳卒中で倒れたが、
親友ジャン・パオロは、2年前に心筋梗塞で
バイパス手術をしてどうにか一命を取り留めて
今はリハビリを兼ねて好きなスキーを
楽しむところまで回復した。
お互いそろそろ高齢者の域に入るが、
まだ不思議な縁で長いつき合いになっている。
私もラテン系のポジティブな性格を
持ち合わせているので、
イタリア人とは相性が合うのでしょう。
もしかしたら前世でイタリア人であったのかも。
そもそも中学生の時に
オードリーヘプバーンのプロマイドをH君が見せなかったら、
そして私が、
偶然大劇の前を通らなかったらクラウディアとの出会いもなく、
イタリアにこれほど興味を持たなかっただろう。
また万博でクラウディアに偶然会って話をして
住所を教えてもらい
短期間だったが手紙のやりとりもでき、
彼女が背中を押したため
憧れのアメリカ行きをヨーロッパ行きに
いとも簡単に切り替えたのが
この『ブーベの恋人』の出会いがあったからであり、
オードリーもヨーロッパのベルギー生まれで、
イギリスで学生生活を送っている。
私もイタリアから不思議な縁でオードリーの愛したスイスで
長く滞在してイギリスに移り3年近く働いていた。
彼女とも何か霊的な共通点がありそうです。
この二人が私の運命を
左右するきっかけを作ったことには間違いないでしょう。
映画は人の人生まで変えるのですね。すごい力を持っています。
この二人の国際女優に出会って
わたしの歩む道もわかり、
多くの外国の友人たちとの出会いもあり、
人生を豊かにしてくれた。この出会いは偶然でなく、
出会うべき必然性も前世から用意されていたように思える。
不思議な縁であった。
タイムマシーンがあれば、
前世まで行き、そのときの彼女たちの人格に会えば
今世にやるべきことがより明確にわかるでしょうね。
二人の生き方をお手本に
私の余生も生きていきたいものです。
「縁は異なもの異なるものですか?」
自動車部に入ってきた。
その頃には、女子部員は全員退部していた。
3年生は就職活動や大学受験勉強のため
1学期の中頃からほとんど活動に参加しなくなった。
私は、1年の時から部長代行だったので
先輩が来なくても思うようにクラブ活動を楽しんだ。
グループ交際
私の学校では
2年生から就職コースと進学コースに分けられた。
私は、気楽な就職コースに進んだ。
進学コースは受験科目を重点的に2年間勉強し、
放課後も1時間みっちり補講授業があった。
これに比べて就職コースは
簿記・珠算・商業実務等の
就職してすぐに役立つ実用的な科目を中心に学んだ。
貿易実務やコンピュータの授業もあり、
ビジネスの世界を垣間見れて面白かった。
会社見学では
日本生命を訪問して、初めて実際のコンピュータを
見せてもらった。
当時のコンピュータは貴重な事務機器で、今のように
一般化もしていなかった。
大企業ですら持っている所は少なかった。
もちろんインターネット機能などもなく、
計算等の数字の処理に主として利用されていた。
形も今のようなノート型やデスクトップ型などもなく
柱のような大きな箱がドカンとフロアーに置いて
使っていた。
45年前のことを思うとコンピュータはずいぶん進化した。
さて話を戻して、
就職コースは、卒業までに最低、簿記と珠算検定の3級を
合格することが義務づけられていた。
私はラッキーにも両方とも2級に合格し、
ついでに英語検定も2級まで取れた。
また、友達関係でも
中学時代は特に親しい友人はいなかったが、
高校2年になり、小学校の時のような親しい友人もできた。
2年の初めにクラス替えがあり、
私の席の前後左右の4人のクラスメートと仲良くなった。
小柄でおっとりしたカオリ。
おきゃんで明るく人なつっこいミチコ。
スレンダーでしっかり者のキヨコ。
3人とも可愛い女学生であった。
そして英語クラブの部長をやっていた頭のいいシゲル。
それに私の5人が
2年最後の修学旅行まで親しくつき合っていた。
俗にいうグループ交際であった。
私のグループの女性たちは、うぶで精神的にも幼い面もあり、
我々を男性と認めていないところがあった。
男性2人も
彼女たちの誰かと二人っきりになると照れくさくて
どうすればいいのかわからず、
かえって変に意識してしまうので、
5人で小学生のように
ワイワイ無心に騒いでいるのが楽しかった。
本当にみんな純情であった。
私もシゲルと2人でいるより
彼女達が中にいることで楽しかった。
彼女たちも
男性がグループ内にいることで安心感があったようだ。
我々は、用心棒みたいな存在だったのかもしれない。
この5人組は1年間限定の仲間であった。
3年になってカオリとミチコは引き続いて就職コースへ
キヨコはお父さんの仕事の関係で修学旅行後に
東京に引越して行った。
我々男性軍は当初の就職コースから進学コースに
進路を大きく変えた。
修学旅行で楽しい思い出を作って、
キヨコが東京に引っ越したのをきっかけに
このグループを解散して、
それぞれが選んだ道を歩むことになった。
その後、高校を卒業して5人が一堂に会することも
連絡を取り合うこともなかったが、
だいぶ時が経ってから私は、偶然に
大阪にいた仲間一人ずつに出逢ったが、
その時は、
もう元の仲良しグループに戻ることはなかった。
私とシゲルが大学に入り、
カオリは大手の現像所の事務員となった。
たまたま私の行きつけの洋書専門店「丸善」の近くに
彼女の職場があり、がんばって働いている姿を
チラッと見かけたことがあったが、
忙しそうに仕事をしていたので声をかけそこなった。
ミチコは大手の調味料関係のA社のOLになったが、
これまた全く偶然であったが、
私の大学1年のときに
合宿費を稼ぐためにアルバイトをしたのが、
彼女の職場であった。
ちょうどお中元シーズン前で顧客に送る
ダイレクトメールの発送事務のバイトを3日間した。
そしてその最後の日に何か資料を取りに
ミチコが資料室に入ってきて、ばったり1年ぶりに再会。
二人ともびっくり。
いつものように人なつっこく
話しかけてきてくれたのがうれしかった。。
化粧をしていたせいか女っぽくなっていた。
お互い仕事中だったので
「また後で!」と
言ったままになってしまった。
ちょうどアルバイト料をもらった日だったので、
彼女の仕事が終わるのを待ってお茶でも飲めばよかったが、
私の仕事が予定より早く終わって、
彼女の終業時間の5時まで2時間以上もあいていた。
仕事の終わったアルバイトがブラブラしているのも
邪魔になるように思えて居づらくて、
彼女に連絡せずに帰ってしまった。
多分大人っぽくなっていたミチコと二人きりになるのが
眩しくて照れくさかったのだろう。
彼女はすでに社会人、
私はすねかじりの大学生であったので、
何となく引け目があったのかも。
東京に行ったキヨコからはシゲルが1度だけ手紙を
受け取っていた。
グループの中では、シゲルとキヨコは特に仲がよかった。
彼もキヨコが東京の短大に行っているところまでわかったが、
その後、音信不通になってしまった。「いい人ができたのかも」
シゲルはその後、大学を出て社会福祉主事の資格で
区役所で勤務していた。
ある日、私が区役所を訪ねた時に彼と偶然ばったり会った。
後で連絡してくれと名刺をもらったが、
その後、私がヨーロッパに行ってしまい
連絡が途絶えてしまった。
彼らとは1年間の短い期間の友人であった。
皆、結婚していい家庭を持っていて欲しい。
「いいおじいちゃん、
おばあちゃんになっているだろうなあ?」
また偶然にどこかでばったり会いたいものだ。
でも町で通りすがりに出会っても
もう今では昔の面影がなく、誰が誰だかわからないかも…。
高校時代の良い思い出を
作ってくれた友人たちであった。
さて、ここでタイムスリップして
話をさらに高校2年の夏休みまで戻そう。
それは、私の人生の方向を大きく変えるきっかけを作った
オードリーヘプバーンとの偶然の
不思議な出会いがあった夏である。
中学までの夏休みの恒例であった
お盆の時期の和歌山行きも
高校に入ってからは興味がなくなっていた。
川でメダカを捕ったり山でのセミ取りが
子供っぽく思えたからであろう。
それにクラブ活動をしていると
夏休みも夏季練習があり、
部員数の少なかった自動車部の
部長としては自由に休むこともできなかった。
さらに中学時代と違って、
親父の仕事を手伝うことが
夏休みの日課の1つにもなっていた。
多分両親は、働いてお金を稼ぐ大切さを
夏休みを利用して教えたかったのだと思う。
この時の夏休みは、
秋に簿記と珠算の検定を受ける予定があり
その勉強もしなければならなかったが、
珠算はすでに小学校で3級をとっていたので、
簿記のみを集中的に勉強すればよかった。
親父の後を継ぐつもりでいたので、就職の心配もなく、
のんびり夏休みを楽しんだのがこの時期であった。
たまに日曜日には、
近くの映画館で母親の好きな時代劇が上映されると
連れていってくれたり、千日前の大劇の芝居や
「夏の踊り」にもついていった。
大劇では人気歌手の「歌謡ショー」や
芝居などの催し物があり、
母親は日本製ミュージカル「狸御殿」の大ファンで
よくいっしょに行った。
ストーリーは
狸の世界のお姫様と若君のラブロマンスで、
華やかで夢のある舞台で私も充分楽しんだ。
大劇はだいぶ前に閉館して、
今は、お笑いの吉本興業の劇場になっている。
その大劇の一角に「大劇名画座」があった。
リバイバルと称して
昔ヒットした名画(洋画)を2本立てにして
上映する小さな映画館であった。
当時、洋画には
あまり興味のなかった私には無縁の場所でもあった。
ところがこの名画座が
オードリーヘップバーンとの不思議な出会いの場となった。
「ローマの休日」と「ブ―ベの恋人」
お盆も過ぎて夏休みも終わりに近くなったある日、
珍しく宿題もすべて終えて、簿記受験の準備も万全で、
クラブ活動も新学期まで休みになっていた。
親父の仕事も少なくて午前中に終わっていた。
何もやることがなく、カオリ達を誘ってどこか遊園地か
暑さしのぎに生駒山にでも登ろうかと思って連絡した。
しかしあいにく皆、予定があってフラれてしまった。
こうなるとどうして暇をつぶそうかと迷った。
家にいてテレビを見るのも飽きていた。
昼ごはんを食べて気晴らしに
繁華街でもブラブラするぐらいしかアイデアがない。
近くに近鉄百貨店があったが、
ここで日頃からよく買い物をしていたので、
今回は少し冒険して
あまり行ったことのないデパートを考えていた。
以前、小学生の頃に2、3度、母についていって
おもちゃを買ってもらったことがあった
心斎橋の「大丸」を
10年ぶりに訪ねてみることにした。
私たち学生にとっては、
「盛り場」を一人でぶらつくのは禁止されていたので、
それを破って行くこと自体が大冒険であった。
当時の校則では
「一人あるいは生徒同士で盛り場をうろつかない。
喫茶店も大人の同伴でないと入ってはいけない。」
となっていた。
大阪には代表的な盛り場が2つあり、
大阪駅周辺の梅田の「北の盛り場」と
難波や心斎橋の「南の盛り場」である。
私の家からは南の盛り場が近く、
母と時々行っていた大劇は
難波の近くの千日前にあった。
心斎橋は、その難波から1駅先で
大阪のメーンストリート御堂筋に平行して
北の大阪駅方面に続く長い商店街である。
千日前に比べると上品な店や有名な高級店が多く、
我が家も特別な買い物がない限り
ここまでは足を延ばすことはなかった。
日頃あまり行ったことがない場所だから
「何か変わった珍しいものがあるのでは」
という好奇心があった。
特に当時は、不良の「たまり場」と言われていた
ミナミの盛り場は
「学生が一人で行ってはいけない地域」でもあったが、
禁止されれば行ってみたいのが人間の心理である。
心斎橋に比べて千日前の方は庶民的でゴミゴミしていて
当時の大劇付近には怪しげな店や人物もチラホラしていた。
この付近は昔の処刑場があったところで、
その霊的な影響なのか、
大火事があったり犯罪も多い場所であった。
今回は一人であったので、千日前を素通りして
難波経由で心斎橋へ直行して
久ぶりに「大丸」や「そごう」の百貨店を中心に
ブラブラする予定であった。
また「恒例の夏休みの
子供向けの催し物もあるのでは」と期待しつつ
早めの昼ごはんを食べて大人っぽい私服に着替えて家を出た。
ところが、難波で降りるつもりで乗ったバスを
1つ手前の母と来た時にいつも降りていた
千日前で降りてしまった。
「習慣って怖いですね!」
難波まで歩いても5分くらいで行けるので
バスの後を追いかけて
まっすぐ大きな千日前通を進めばよかったのに…
ここからオードリーが魔法をかけました。
何と
今まで通ったことのない細い横道に入ってしまった。
怪しげな飲み屋や風俗店が立ち並んでいた。
昼間だったのでほとんどの店は閉まっていたが、
何かを物色しているような
挙動不審な通行人もチラホラいる。
突然、若いやくざっぽい男が声をかけてきた。
「兄ちゃん!兄ちゃん!
きれいなネーチャンいるからウチで遊んでいかないか?」と
誘ってきた。初めての体験でびっくりして
「いや結構!」というと
「学生やったら学割で安くしとくから遊んでいってや!」と
しつこくつきまとわれた。
「これから用事で行く所があるので、またな!」と
相手を怒らせないような対応をして、こんな怪しげな所で
意味のないやりとりで時間をつぶさないで、
とにかく「心斎橋へ」と一目散に
人の多い通りに走りこんだ。
何と大劇の横に出てきた。特に夏休みの盛り場は、
少年犯罪防止のために定期的に
警官や教師・PTAの生活指導員がよく巡回していた。
親と一緒のときは安心感もあり、何も感じなかったが、
いざ一人でくると
何となく怖さもあり、用心深くなりドキドキしてくる。
余程の用事がない限り
高校生がウロウロするような場所ではない。
しかしここまで来ると大劇では、
「今、何を上演しているのか」が気になり
看板だけでも見て
すぐに心斎橋に行くつもりで正面入口に回った。
有名な歌手が実演をやっていたが、
特に興味はなかった。
こんなところでいつまでも立っていると
補導されるかもしれない。
「さあ行こう!」とすると
金縛り状態になり足が動かない。
『困ったなあ!』 『どうなったのか?』
指導員に見つからないように周りを警戒しながら
大劇の前に立ちすくんでいた。
キョロキョロしていると
挙動不審で疑われるといけないので
足が動けるようになるまで、看板を隅から隅まで
見ているフリをしていた。
その時、何気なしにその隣の名画座の看板が目に入った。
「ローマの休日」と「ブ―べの恋人」の2本立てを上映していた。
再びオードリーヘプバーン
「ローマの休日」?
昔、どこかで聞いたことがあるタイトルだが、思い出せない。
とにかく母の影響で映画館で見る映画は、時代劇専門であり、
この時までは、好んで映画館で洋画を見たことがなかった。
まして洋画のタイトルや
俳優さんの名前など知っているわけはない。
「もしかしたら思い違いかも」
でも「ローマの休日」は、かすかな記憶が残っていた。
当時は几帳面で完璧主義で意固地だった性格が災いして
「思い出すまでここで考えてやる」という気持ちが沸いてきた。
それと同時に魔法が溶け出したように足も動き出した。
「ローマの休日」のスチール写真が
ショーウインドに貼られてあった。
そのオードリーの顔をマジマジと眺めていた。
王冠をつけたプリンセスのような女優さんのスチール写真が
貼ってある。どこかで見た女優さんだ。
その時はまだこれがオードリーとは分からなかった。
「誰だったのかなあ?」
「同じような写真をどこかで見たことがある」
その横に「オードリーヘプバーン主演」と
書いてある。男優さんもいっしょに写っていたので、
はたしてオードリーというのはどちらかなあ?
最初は男優さんの方だ思っていた。
(因みに相手役の男優はグレゴリーペックさん。)
時代劇で主演はほとんど男優であったための誤解であった。
「オードリー!」
「どこかで聞いた名前だ?どこだったのか?
そんなに昔ではない。」
私の海馬の中では、昔の記憶を
引き出そうと一生懸命に働いていた。
とにかく字幕を読むのが面倒で、
洋画など映画館で見たことがなかった。
見るとしても声優さんが日本語に吹き替えている
アメリカのテレビドラマぐらいであった。
テレビに出ている
外国の俳優さんの名前は知っていたが、
「オードリー」は喉まで出掛かっているのに
思い出せなかった。
日本語の「踊り」に似ているので、
どこかで聞いていたはずだが
思い出せない。
前頭葉の海馬がだんだんイライラしていた。
一方の「ブーベの恋人」の
クラウディア・カルディナーレは
初めて見た名前で、
初めて見る女優さん。
こちらは思い出しようもなかった。
でも「オードリー」は気になって
気になって、
このままでは心斎橋には行けない。
なんとか思い出そうと
必死に記憶を辿っていた。
しばらく「オードリーの写真を見ながら
「オードリー」と名前を繰り返し小声で叫んでいた。
観客がその写真を見ながら館内に次々入って行った。
そこに助け舟が現れた。
私の後ろからそのスチール写真を見ていた
若者の一人が、
「俺、これと同じブロマイドを持っているぜ!」と
4、5人の仲間に自慢げに叫んで
切符を買って中へ入って行った。
その「ブロマイド!」という言葉で記憶が蘇った。
「そうだ、あの時のブロマイド事件の女優さんだ。」
中学の音楽の時間の前に
ライバルの秀才Hがこっそりと自慢げに見せてくれた写真だ。
洋画には全く興味がなく「こんな女優は知らない」といったら
みんなから
からかわれたために反論してクラス中で
大騒ぎした女優さんだと長いことかかってやっと思い出した。
難問解決!
ついでに教員室で説教されたときも
「オードリーのローマの休日はよかった」といった
教員の何気ない言葉まで芋づる式に思い出された。
Hや他のクラスメートも
「オードリはいい」と言っていたことまで思い出した。
字幕を読むのが億劫で、「ローマの休日」は
特に好んで見たいという映画ではなかったが、
次の瞬間、足は心斎橋の方向に向かわず、
切符売り場の前に。
さらにオードリーが魔法をかけたように
無意識にポケットの財布からお金を出して
そして周りに補導員らしい人がいないか
確かめながら生徒手帳を見せ
「学生1枚」と聞こえないような小声で
切符を買って急いで
館内に吸い込まれるように入った。
これが私の洋画の映画館レヴューであった。
運命が今までとちがう方向に向いた瞬間であった。
人気のある映画であったので館内は超満員であった。
椅子が空いてなくて
壁にもたれながら2時間近く立って見ていた。
背の低い私の周りに背の高い青年がいたために
字幕が充分読みきれず、椅子が空くのを待って座れたときは
その日の最終回の上映だった。
とうとう心斎橋へは行けなくなった。
「足止めの術か!」
この頃「スクリーンの妖精」と言われていたオードリーは
「ピーターパン」の妖精ティンカーベルのように
私に金粉を振りかけたのか?
夜10時過ぎに帰宅したら親から大目玉を喰らった。
オードリーVSクラウディア
どちらもイタリアが舞台であり、恋愛ものであるが、
背景や環境が異なると、まったく受ける印象が違う。
「ローマの休日」は、
粋で明るい最後はハッピーエンドにならないが
なんとなく夢がある大人のおとぎ話であるが、
「ブーベの恋人」の背景には戦争があり、殺人が絡んだ社会派の
暗い感じのドラマ。14年の長期間を耐えて
恋人ブーベの出所を待つ
女の悲しみがヒシヒシと伝わる秀作である。
両方ともモノクロであったが、
色が想像できる私には不思議な映画でもあった。
明るい陽の気品のあるオードリーと
哀愁を帯びた陰の庶民派の土の匂いがする
クラウディアの役柄が対照的であった。
当時の私にとっては、オードリーには近寄りがたい
気品さを感じていた。あまりにも西洋人ぽくって
雲の上にいるような女優さんだった。
まさにこの頃から彼女は妖精であった。
これに比べてクラウディアの演じる恋人をずっと待ち続ける
真の強い女性の姿が日本の古い女性像を彷彿させ、
また彼女の黒髪と憂いを含んだ表情がやけに日本的で、
私としては、「ブーベの恋人」のほうが
親近感が持てて好きだった。
彼女のハスキーボイスも魅力的であった。
イタリアにもこんな日本的な女性がいるのかと思うと
イタリアという国に親しみと興味がわいてきた。
そして万博で初めて彼女に会っていろいろ話をして
握手をして手紙を書いたらすぐに返事をくれた。
この一連の動きが構えることもなく
実に自然にスムーズに近づけたのは、
彼女の人柄でもあったが、
私にとっても不思議な女優さんであった。
大阪万国博の時、谷口千吉監督の下で
撮影を手伝っていたので俳優さんや
タレントさんに多く出会ったが、
クラウディアのようなタイプは初めてであった。
実際会ってみると想像以上の気さくで
女優ぶったところがない。
「クラウディア!」と呼びかけると
笑顔で手を差し伸べてしっかりと握ってくれた。
また、わりと律儀で
温かい心を感じさせる女優さんである。
映画の役柄よりも彼女の人柄が大好きで、
以来、クラウディアの出演した映画は
ほとんど見ることになった。イタリアにいた時も
あまりイタリア語がわからなかったけど、
トリノでクラウディアの映画を上映しているとの
映画情報誌の記事を見つけるとわざわざ列車に乗って
見に行く始末であった。
「ブーベの恋人」で彼女が演じたマーラが
汽車に乗りブーベに面会に行くように…。
オードリーとは彼女の自宅があったスイス・ローザンヌ近くに
私も滞在していたが、残念ながら会う機会はなかった。
その頃、彼女は子育てに専念するために
一時映画界を去ってローザンヌにいたが、その後2,3本撮って
映画界を引退した。
その後のユネスコ親善大使としての活動は、素晴らしかった。
彼女の人間的な優しさで
アフリカやアジアの不幸な子供たちへ温かな愛を注いだが
道途中で他界したことが惜しまれる。
他方、クラウディアも
現在、ユネスコ親善大使として
「女性の権利保護活動」をしている。
この二人は競演したことはなかったが、
二人とも人間的にはすばらしい人で、
女優としての演技より
私は、彼女たちの温かい人間性で
社会に貢献しようとする生き方が好きなのです。
「ブーベの恋人」でブーベを演じた
ジョージ・チャキリスは
昨年の彼のブログに
当時のクラウディアの印象を
次のように書いている。
『私の恋人役のクラウディアは、
とても美しく才能豊かな女優であることは
皆さんもご存知だと思いますが、
彼女はとても気さくで心温かな人柄でもあります。
いまだに連絡を取り合っている友人同士であるのは、
彼女のそんな性格に惹かれてのことでしょう』と絶賛している。
私も同感である。初めて彼女に実際会ってみて
チャキリスが感じた通りのものを私も感じた。
残念ながら、
当時、私の知っていた彼女のローマの自宅の住所を
デンマークで紛失してしまって
(鞄が盗難にあってすべて無くしてしまった)
以来、長い間音信不通になってしまったが、
時々インターネットで彼女の元気な姿を見るたびに
安心している。
家庭で簡単に彼女の情報が分かるようになり
いい時代になりましたね。
「ローマの休日」のストーリーは前のブログで紹介したので、
ここでは、知らない人のために「ブーベの恋人」の
ストーリーをご紹介しましょう。
「ブ―ベの恋人」(1963年・イタリア/フランス合作)
クラウディア・カルディナーレとジョージ・チャキリスが主演した、
カルロ・カッソーラの同名ベスト・セラー小説を映画化した
ファシズムと戦うパルチザンの若者と村の少女の恋物語です。
映画は哀調を帯びたメロディとともに汽車の扉に佇んでいる
一人の女性の回想から物語は始まる。
彼女の名はマーラといい、2週間に1度、
投獄された婚約者ブーベのもとに7年間通い続けている。
そしてあと7年間通い続けるという。
そしてさらに回想が続く。
1944年の終戦=解放の日。
20歳の村娘マーラの元に一人の青年が訪れてきた。
パルチザンである彼女の死んだ兄といっしょに戦っていた
同胞のブーベが悔やみを言いにきたのだ。
針と糸を貸してくれという
彼の破れたズボンを繕ってやるマーラ。
その夜、世話になったブーベはパラシュートの絹布を
お礼に彼女に贈った。これがきっかけで交際が始まった。
マーラは彼からの便りを待つ日が続いた。
週一回決まってよこす手紙には、
仕事や党活動に明け暮れる報告だけが
書かれていて、愛の言葉はなかった。
しかし、徐々にマーラはブーベに
恋心を募らせ愛を育んでいた。
やがて幾度かデートを重ね
ついにブーベが求婚し二人は婚約する。
その時、二人を引き裂く大事件が起こった。
ブーベは、ファシストの憲兵とその息子を殺してしまい、
追われる身に。
マーラはブーベに同行してブーベの実家に身を寄せるが、
そこにも警察の手が。
仲間に隠れ家を世話された二人は、
わずかな蜜月の時を持った。
しかし、いよいよ国内潜伏も許されず、
彼はマーラを残して国外へ逃げた。
一旦、家に帰ったマーラだが、周囲の目がうるさく、
友人の紹介で都会に出て働き、
そこで
印刷所勤めの生真面目な青年ステファノと知り合う。
お互い婚約者のいる身であったが、
ステファノは婚約者とはうまくいっていなかった。
マーラも連絡が途絶えてしまったブーベとは、
もしかすると
一生もう会えないかもしれないという迷いと、
真剣にマーラの幸せを思っている
ステファノに心が動いていく。
そこへブーベが国外で捕まって
イタリアに送還され裁判となる。
法廷で再会したマーラは、
“君しか頼る人がいない”と言う
ブーベの支えとなろうと決心した。
結局、14年の刑を受けたブーベ。
2週間に1回ブーベに会うことを約束し、
ステファノと別れて7年たったある日。
偶然、ステファノに再会した。
まだマーラに未練があったステファノは、
独身を守っていた。
そしてマーラに再びプロポーズをするが、
マーラの決心は7年たっても変わらなかった。
「もう7年経ったのだから、
あとの7年など
あっと言う間にすぎるでしょう」と語るマーラ。
あの時、20歳だった娘は今、27歳の女盛りだった。
あと7年たてば34歳。
ブーベが出所したらすぐ結婚しよう。
人は遅い結婚だと言うかもしれないが、
私は気にしない。
だってずーっとブーベがそばにいるのですもの。
早く子供も作ってとブーベとの
幸せな家庭生活を夢見るマーラ。
この時のステファノとの最後のやりとりが
マーラの決心が揺るがない愛の強さを物語っていた。
「マーラ、彼をいつまで待つのか?」
「いつまでも待つわ。
でもあなたと一緒に過ごした時間も
決して忘れないわ。
あなたが、わたしを幸福にしようとしてくれたことも…。
でも、もうお別れしなきゃならないわ、ステファノ。
私達、別々の道を行かなきゃならないのね。
わたしのいる所は、やっぱりブーベのそばなんだわ。
死ぬまでそうなんだわ。さよなら、ステファノ。
あなたの幸せを祈ってるわ。私はブーベの恋人なのよ」
このマーラのひたむきさと
けなげさに感動を覚えところで、
哀調に帯びた主題歌が再び流れ、物語を盛り上げて
FINとなる。
戦後の混乱期の揺れる社会に翻弄され、
流転していく人生を迷いながら恋人を信じて愛し続ける
一人の平凡な女性の目を通して描く社会派メロドラマで、
複雑な女ごころをとらえた映像が秀逸で派手さはないが、
余韻の残る一作であった。主人公の姿が切なくも美しい。
モノクロ映画であるが、白黒の映像は、
片田舎の混沌とした戦禍の様子を
リアルに叙情的に映し出していて、
カラー映像では、
なし得ない効果を出していたと思う。
この撮影は、イタリア北部にあるシエナで行われたようだ。
シエナは、以前私が長く滞在していて人生の第2の
ターニングポイントとなった古都・フィレンツェから車で
1時間ぐらいの歴史のある町で、
トスカーナ地方でもとりわけ美しい街のひとつとして
知られているようです。
フィレンツェが私の第2のターニングポイントになったのは、
この「ブーベの恋人」が
最初のターニングポイントであったからかもしれない。
私にとっては
上町台地と同じくらい
不思議な縁で繋がっている町である。
この時はシエナで撮影されたとは知らなかった。
たとえ知っていてもあの時の貧乏生活では
シエナまでは行けなかっただろう。
いつかチャンスがあれば、行って見たい町です。
この頃のイタリア映画は、哀愁漂う名作が多かった。
「自転車泥棒」 「道」 「終着駅」 「鉄道員」・・・等など。
最近は
いいイタリア映画があまり日本に紹介されないのが残念です。
「ブーベの恋人」を見てから私はイタリアに大変興味を持ち、
イタリア人のペンフレンドが欲しくなり、
ペンフレンド協会で誰かを紹介してもらうことにした。
マーラのような女性が希望であったが、
どこで手違いがあったのか、送られてきた住所は
ミラノ近郊の1歳年下のジャン・パオロという高校生であった。
彼からの最初の手紙では、「僕は残念ながら男性ですが、
よかったらペンフレンドになってくれますか?」といってきた。
彼とは、この面白い「間違い縁」でもう45年以上のつきあいだ。
彼も奥さんをつれて日本に遊びに来たこともあり、
私も新婚旅行にイタリアを訪れて家内を紹介しているので
今では家族ぐるみのつき合いである。
イタリアは大好きな国の1つで、今まで3回も訪問している。
今度行く機会があれば、
ジュリエットのベローナと
シエナにナポリまで足を延ばしてみたい。
「ナポリを見て死ね!」です。
13年前に私が脳卒中で倒れたが、
親友ジャン・パオロは、2年前に心筋梗塞で
バイパス手術をしてどうにか一命を取り留めて
今はリハビリを兼ねて好きなスキーを
楽しむところまで回復した。
お互いそろそろ高齢者の域に入るが、
まだ不思議な縁で長いつき合いになっている。
私もラテン系のポジティブな性格を
持ち合わせているので、
イタリア人とは相性が合うのでしょう。
もしかしたら前世でイタリア人であったのかも。
そもそも中学生の時に
オードリーヘプバーンのプロマイドをH君が見せなかったら、
そして私が、
偶然大劇の前を通らなかったらクラウディアとの出会いもなく、
イタリアにこれほど興味を持たなかっただろう。
また万博でクラウディアに偶然会って話をして
住所を教えてもらい
短期間だったが手紙のやりとりもでき、
彼女が背中を押したため
憧れのアメリカ行きをヨーロッパ行きに
いとも簡単に切り替えたのが
この『ブーベの恋人』の出会いがあったからであり、
オードリーもヨーロッパのベルギー生まれで、
イギリスで学生生活を送っている。
私もイタリアから不思議な縁でオードリーの愛したスイスで
長く滞在してイギリスに移り3年近く働いていた。
彼女とも何か霊的な共通点がありそうです。
この二人が私の運命を
左右するきっかけを作ったことには間違いないでしょう。
映画は人の人生まで変えるのですね。すごい力を持っています。
この二人の国際女優に出会って
わたしの歩む道もわかり、
多くの外国の友人たちとの出会いもあり、
人生を豊かにしてくれた。この出会いは偶然でなく、
出会うべき必然性も前世から用意されていたように思える。
不思議な縁であった。
タイムマシーンがあれば、
前世まで行き、そのときの彼女たちの人格に会えば
今世にやるべきことがより明確にわかるでしょうね。
二人の生き方をお手本に
私の余生も生きていきたいものです。
「縁は異なもの異なるものですか?」
この記事へのコメント