ひまわりの記 最終章 『私のおいたち大学編 ④    学園闘争の嵐の中で後編』

学生会計学学術大会の開催
4回生の春。
私たちの大学が関西ブロックの会計学学術大会主催校となった。
会場は、大阪市郊外にあった我が分校に決まった。

交通の便は悪いが、新しいきれいな校舎で、
市内の本校と違って空気が新鮮で広くてゆったりしていたので、
勉強する環境としては、最適の会場であった。

会長を退いていた私は実行委員の立場で参加した。
部門も財務会計部門と比較的新しい管理会計部門の二つに分けて
並行して同時開催となった。
比較的新しかった管理会計部門は会員が少なく、運営が危ぶまれたが、
座長のI君がうまくまとめてくれた。

大会は1日で終わったが、
交通便の悪いにも拘らず多くの学生の参加があり盛会に終わった。

関西ブロックとは
大阪、京都、兵庫の主な私立大学8校の会計学クラブで構成され、
年2回、持ち回りで主催校を決めて学術大会を行って交流していた。
この時は、我がクラブが初めて開催することになった。

とにかくすべてが初体験で、
何から手をつければいいのか分からず右往左往していた。
まず「発表テーマ」と担当者を決め各校に案内状を作成して送付、
論者の募集。講評の先生の依頼。大教室の確保。垂れ幕、看板作成
記念品と昼食の手配等々。次々と細かい仕事が増えてきた。

とにかく約200名の学生に一般学生の参加者数十名も加わった。
多数の人数を短時間で捌かなければならなかったが、
トラブルもなく、うまく対応できた。

この大会終了によって4回生のほとんどが引退して就職活動に専念した。

4回生は一番人数が多く15名いたが、5人が親の仕事を継ぎ、
9人が就職を希望していた。
残り1人が私で、大学院受験となったが、
結果は以前のブログで書いたように
遅刻の大失敗をやらかして不合格。
急遽、開催前の日本万国博にアルバイトとして入ることになる。

大学紛争の渦中に
しかし、時は我々を大人しく卒業させてくれなかった。
卒業の半年前に今まで経験したことのない大事件に巻き込まれた。

それは、
秋にゼミの修学旅行で東北地方を一周して帰ってきた後であった。
仙台の松島を船でめぐり青葉城で伊達政宗公の銅像に初対面して
十和田湖で鱒料理を食べ、奥入瀬のせせらぎと紅葉を楽しみ、

本州最北の青森まで足を伸ばして約1週間かけて北陸周りで帰ってきた。
これで北海道と沖縄を除いて本州、四国、九州と踏破したことになった。
大学最後の大名旅行を楽しんだのもつかの間。
大事件が勃発

大学封鎖
私の旅行中に大阪市立大学の赤軍派の学生に加担した
我が校の左翼系学生が
近くの交番に火炎瓶を投げ込む事件が発生していた。

なぜこんな馬鹿げたことをしたのか全く理解ができなかった。
とにかく何かにつけ権力に対して何でも反対していた
自己顕示欲の強い連中のうさ晴らしにすぎなかったのだろう。

この事件に関して大学当局が警官の立ち入り捜査を
認めたことで「大学の自治を守れ」と今度は大学当局に牙をむいた。

彼らがまず取った手段が、講義の無期限ボイコットであった。
「大学の自治を守れ」「学問の自由を守れ」と言う割には、
彼らは、我々が自由に勉強する権利を奪い取ってしまった。
まず、無期限ストライキで講義ボイコットという手段に出てきた。

その中心となったのが、同じ学術会系の経済学クラブとマルクス研究会等の
左翼系学生であった。日頃は学術会でもよく顔を合わせる仲間でもあった。

彼らの言い分を聞きたかったので、学術会でも緊急会議を持ったが、
非現実的な革命論まで持ち出し、彼らの暴力革命を正当化することに終始した。

最初は、彼らの考え方のほうが正しいと思った事もあったが、
ただ理想論を語るだけで、多くの人を説得するだけのものは持っていなかった。
自分達の欲望を満たすための最終手段が暴力しかないと結論づけたときには
我々から遠く離れた存在になっていた。

彼らはしばしば全体集会を開いた。そのたび一般学生と激しい討論となった。

誰からも理解が得られなくなった彼らは、最後の手段に打って出た。

問答無用!。我々は、今から学生会館をバリケート封鎖する!」と
捨てセリフを吐いて、集会場の大教室を出て行った。
そして学生会館に1ヶ月以上も閉じこもってしまった。
他校の赤軍派の学生が後ろから支援していたようであった。

あくまでも暴力的手段によって彼らの考えを認めさせようとした。

駄々っ子と同じであった。学生会館には我々の部室があり、
4年間の大切な研究資料があったので、
我々は、それらを破損されることを恐れた。

この時点では、
彼らは何をするかわからない不気味なテロリストとなり、
我々とは対立する存在となっていた。
その翌日から講義はすべて休講となった。
いつ再開されるか誰もわからなかった。

もちろんクラブ活動も学生会館が封鎖されて使えなかった。
幸いに分校は封鎖されず、後輩達の活動はここで行ったが、
我々4回生には、クラブ活動より、卒論の作成にかかる時期であった。

まだ、就職が決まっていない者も、
彼らと学生運動にかわっている暇などなかった。

そういう意味では
この時期の休講期間は
好きなことが出来る自由な時間が充分にあって好都合でもあった。

私にとっては、
大切な卒論の資料類が
部室のロッカーに入れたままで取り出せずに困った。

私流卒論作成法
今では、コンピュータに保存しておけばいつでも取り出して修正(草稿)できるが、
その頃はパソコンはまだ一般化しておらず、
いちいち「原稿用紙に書いては消してまた書く」といった具合で
大変時間がかかる作業であった。

最近の大学生は、コンピュータで検索して貼り付けて
簡単に卒論を作成する者が多いようだが、
今の大学生は要領がよくて楽ですね。

私たちの場合は、まず卒論のテーマを決め、
それに関係する資料探しから始めた。

今はネットで簡単に探せるが、
当時は、まず数軒の大きな本屋をはしごして
探し回ることで資料を手に入れた。

しかし専門書は高くて、学生では買えない本も多く、
電話帳で古本屋を探して歩き回った。
古本といっても中には高価な本がある。
手の出ない本はタイトルと著者だけメモして図書館をあたる。

大学の図書館はもちろん、
大阪の各区には最低1つの図書館があった。
幸い私の住んでいた区には、大小とりまとめて3ヶ所あった。

大阪市内で一番大きな中央図書館が
中之島の大阪市役所の後ろにあるが、
ここでは入館者が非常に多く、列に並ばないと入館できない。

運が悪いと1時間以上も待たされることがあった。
1人出たら1人入れてくれるので、
時間帯を選ばないと時間の無駄となる。

利用者が多い図書館は、開館時間前から並んで
じっくり午前中いっぱいここで本をあさるか、

借りるだけなら閉館時間30分前ぐらいに入って、さっと数冊借りて
ゆっくり家で読む方が時間が無駄にならないことがこの頃学んだ。

借りたい本が貸し出し禁止のラベルが多かったので、
備え付けのコピー機でコピーをとったことも多く、

図書館を出る時は本とコピーの資料で膨れ上がった重いかばんを抱えて
腹を減らしてよく帰ったものです。
今でも家の近くの図書館を利用するが、昔の習性がまだ残っています。

ここまでが下準備で、これからが本番。
借りた本を1冊ずつ読み理解しながら、
大切な部分を項目ごとに書き写す。コピーの場合は赤線のアンダーラインを
引いておく。これも項目ごとにファイルしておく。

感じたことをメモ書きしておけば、後で自分の言葉になりやすい。
理解できない専門用語は、辞書で調べるが、その説明文の中に
さらに分からない専門用語が出てきて結局、辞書で調べても
何がなんだか分からなくなる場合が多々あった。

こんな場合は他の著者の意見を探して理解できることもあるが、
学者先生は簡単なわかりやすい言葉を使うのが嫌いなようで、
今まで聴いたことのない難しい言葉や辞典を引いても分からない言葉を
多用するので1冊読むのに時間がかかる。

項目ごとのメモファイルがたまると卒論の構成を考えて、
その順にファイルを並べ替える。
「起承転結」を考えて、区分けして
そこにファイル内のメモを中心に言葉を組み立てていく。

矛盾している箇所がないかに気を使い、
意見が分かれる説には特に注意を要した。
「A案を支持する」か「B案を支持している」のか。その理由は?など。
ここで理解して自分の意見をはっきり持っていないと矛盾した結論となり、
何を言いたいのか分からなくなる。

このように卒論1つ仕上げるのに莫大な時間を要する。
小説と同じで草稿に草稿を重ねて初めて完成する。

幸い私の場合、2年前から懸賞論文を仕上げた時に
集めて取っておいた資料を部室の個人ロッカーに保管していたので、
資料探しの時間は少なく済んだ。

ただ反動学生によってこれが破損されていれば
又、最初からやり直さなければならなかった。
そうなればとても卒業までに間に合わない。

休講時期は、ゼミもできなかった。
万一のことも考えて外部の貸し教室でも借りて
ゼミ仲間を集めて分からないところを皆で相談して
作成することも考えていたが、
その後、紛争が終結に向かっていった。

閉じこもっていた学生達も最初は見物人も多くいたので、
いきがってアジ演説をやっていたが、
日が経つにつれて
周りも彼らを無視して相手をしなくなると

孤立を恐れたのか?かまってほしかったのか?
シビレを切らしたように再び暴れ始めた。
今度は、会館の上から見物人めがけてホースで放水を始めた。
上からも下からも罵声が飛び交っていた。

恥ずかしながら
これでも20歳を超えた大学生のやることかと思うと情けなくなった。
会館の前列で見ていた私の方にも水が飛んできて濡れた。教授の1人が
私の元に来て「危ないから後ろに下がれ!」と言って、
腕を掴んで水のかからないところまで引き戻した。

私も彼らの無法なやり方に抗議したい気持ちが強く、
生来の無鉄砲さも手伝って、
びしゃ濡れ覚悟で最前列で上から
放水する昔の学術仲間を興奮しながら戒めていた。

それよりも会館を開放してくれないと卒論の作成できないので
私の方も焦せる気持ちが強かった。

学校当局が水道栓を根元で
止めたようで放水は10分くらいで終わったが、
会館前は水溜りが出来ていた。
その日は、学校当局と反乱学生の代表者同士で
話し合いを持つので一般学生は解散させられた。

この数日後、
バリケートは解除された。機動隊の介入はなかったので、
静かに封鎖が解かれた。

大学当局との間で何が
話されたのかは公表されなかった。ただ「学生が自主的に明け渡した」
との報告のみで、一般学生には真相を告げられないまま闘争は終わった。
私は彼らの間で何の取引があったかは興味もなく、特に詮索もしなかった。

ただ、部室の中がどうなっているかだけが心配であったので、
中に入れることがうれしかった。
久しぶりに恐れ恐れ部室に入ると壁のあちこちが落書きでいっぱいになっていた。
当時の流行語『造反有理』の文字があちこちに書かれていた。

飲み物のビンや食べ物のカスが散乱しゴミの山があちこちに出来ていた。
ゴミ屋敷までのひどい状態ではなかったが、ゴミの処理と後の掃除は
我々がやらなければならなかった。

インスタント食品類がたくさん残っていた。
多分、外部から他校の支援者からの差し入れが裏口からこっそりあったようだ。
さらに驚いたことは、学術会の電話を使ってあちこちへ国際電話をかけたようで
その月の請求金額が数十万に達していた。

肝心の私の卒論資料は一部無くなった物もあったが、
ほぼ揃っていたので安心した。
損害は、ただロッカーの鍵が壊されていただけであった。
大学生活の最後に面白い経験をさせてくれました。

学生運動
学生運動に関わったのは、これが2回目であった。
今の学生は我々の時と異なり、おとなしいので、
「学生運動って何?」って時々聞かれます。

運動会と混同している天然ギャルもいます。
時代のギャップを感じます。

そもそも学生運動とは、
「学生を中心にして組織されて行われる
政治的・社会的な主張をともなった運動を指す。」と難しい定義があるが、

とりわけ日本では、学生たちが1960年代後半から1970年代初頭に
かけて繰り広げた、いわゆる「全共闘運動」を指す場合が多い。
学生運動は欧米の大学で必然的に起こり、各国で流行的に発生していった。

日本にも私の中学校時代あたりから起こり始めていた。有名なのが、
かの1960年に起きた日米安全保障条約締結反対に立ちあがった
労働者や学生、市民が参加した日本史上で空前の規模の反政府、反米運動と
それに伴う政治闘争であると同時に、火炎瓶や鉄パイプで暴力を振るう
暴動・紛争という側面も持っていた。

私の中学生の時の出来事で、何の事かも分からない子供達は、
棒切れを振り回して、当時の流行語のように
「安保反対!安保反対!」と叫び
「デモごっこ」で遊んだこともあった。
子供心にも大きな影響力を与えた大事件であり、
これがまだ沖縄の米軍基地問題で沖縄県民の心を痛めている。

なお学生運動は、大学生に限ったことでない。
高校生のあいだにも広がりを見せていた。
私も高校生のときにデモに参加したことがあった。

自動車部研究会の顧問に1人が共産主義者の先生で、
「倫理社会」を担当していた。
彼の授業は共産主義の洗脳みたいで、
PTAからは、授業が偏っているので、
「やめさせてほしい」と言われながらも
教鞭を取り続けていたが、信念があったのだろう
私が卒業するまでは、がんばり通してやめなかった。

「在学中は彼の影響をを受けた」と言うより、
クラブの顧問と会長と言う立場で話す機会は多かった。

彼を通じて共産主義を教えてもらったが、
共産主義者にはならなかった。
それは東ドイツでの1週間の不自由な生活を
強いられたことによるが、その時には
心はいつもバリアフリー」という生き方が確立していたからであろう。

ある日、「日韓条約に反対のデモをするから参加しないか」と先生から誘われた。
これは、
1965年6月に、日本(佐藤栄作政権)と韓国(朴正煕政権)との間で
調印された条約で、締結に際し、日韓両国で激しい反対運動が起こった。

日本での反対運動は学生活動家や旧社会党などによって展開された。
そこでは朝鮮民主主義人民共和国を無視した韓国との単独国交回復に
反対するものが主であった。この裏にはアメリカのベトナム戦争への準備という
策略もあったが、その当時の私にはまだわかっていなかった。
ただ好奇心が強かっただけであった。

どの政党・党派にも属さないで行動する「ノンセクト・ノンポリ」で
心は何物にも束縛されない 「いつもバリアフリー」でありたかった。
我々は、集合場所の大阪外大に集まった。

たくさんの市民、学生が集まり、両側を機動隊にはさまれて

日韓条約反対!」とシュプレコールしながら府庁まで歩き、解散した。
中には機動隊員と冗談を言いながら、
お互いに野次りあいながら行進する者もいた。

テレビで見るような石を投げたり警棒で殴られるような
過激な場面もない行儀のよいデモ行進であった。
一種のお祭り気分でもあった。

我々が反対しても条約は破棄されないことを知りつつも

「俺は反対だ!」と自己主張し、自己満足に終わるのである。

若い者にとっては、「負け犬の遠吠え」みたいで、惨めになることもある。
国家権力が強力すぎて
それに小さな蚊のような人間が刺してもびくともしなかった。
どれだけ相手に打撃を与えるか?
それが暴力であるとしたら悲しいことだ。

私の最初で最後の「デモ行進」デビューは無難に終わった。
この後2回目をアメリカの「ベトナム戦争反対デモ」をデンマークの学生達と
コペンハーゲンでやるところまでいっていたが、
警官に捕まると即、国外追放でデンマークには入国できなくなるので
仲間が私の参加を止めたため「幻のデモ行進」となった。

この件は来月から始まる「私のおいたち ヨーロッパ青春編」で
おいおいに述べてゆきましょう。

「大学の自治や学問の自由を守れ」という名目で自然発生した
学生運動も1970年代以降、中心的存在であった全共闘運動は
「内ゲバ」「テロ」といった方向へ過激化していき、
知識人や一般市民からの支持を次第に失った。
それを象徴するのが、連合赤軍事件であった。

1980年代になってからは、学生運動に積極的に関心を示す
大学生は少数派になってしまった。
また大学側も学生たちに「運動」させないためにキャンパスを
郊外に移転したり、学則を変更するようになった。

「いちご白書」
日本では、このような状況であったが、海の向こうのアメリカの
コロンビア大学でも1968年に大きな学生闘争が起こっていた。
これを映画化したのが世界的大ヒットした社会派青春映画の佳作
いちご白書」であった。

日本でも大ヒットした。この中で流れた『サークルゲーム』もよかった。
私の青春時代の秀作の1つです。

このヒットにあやかろうと日本でもしばらく後にユーミンの作詞・作曲による
いちご白書をもう一度」という歌をフォークグループ「バンバン」が
歌ってそこそこヒットはしたようだが、私は「サークル・ゲーム」のほうが好きです。

映画の内容は、
1968年4月、遊園地を軍事関連施設に建て直す事に端を発した
コロンビア大学の学園闘争の中、好奇心と下心から学生運動に身を投じた
ボート部の学生と、活動家の女子大生の恋愛を中心に
彼を含む学生たちは大学の構内で籠城を続けるが、紛争の高まりを受け、
ついに武装した警官隊が構内に突入する異常事態が起こる。

この作品は世界中の反体制の学生たちの間でカリスマ的な人気を博した。
学園紛争の渦中に飛び込んだ主人公青年の挫折を、
ドキュメンタリー風の生々しいタッチで演出。そのやり切れなさや
青春の痛みは同じ時代を生きた者、同じ経験をした者にはたまらない映画である。
今年中に是非もう一度レンタルで見たいものである。










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